入社前にはいつも語っているので、聞いたことはあるけれど詳しくは知らないであろう、BeBlockのルーツである松村印刷所の話をします。
私は、もともと印刷会社の3代目として生まれました。創業者は祖父、松村彦六郎です。祖母と両親、姉と撮影した写真があるので、スーパーMAX恥ずかしいですが、こちらにアップしておきます。

1977年(昭和52年)の私です。
祖父:松村彦六郎(松村印刷創業者)
祖母:松村初子
父:松村浩(2代目:当時33歳)
長男:松村祐輔(3代目:当時3歳)
撮影者:松村光代(母)
父によると、祖父の彦六郎はもともと保険の営業マンで、字を書くのが上手いと周囲から言われ、宛名を書く仕事を受けるようになったのが創業のきっかけだそうです。
そのため、創業は印刷業ではなく、筆耕屋(文字を書くことを生業とする職業)からのスタートです。
時は1948年、名古屋の大須で創業しました。父は1944年生まれなので、父が4歳のときに脱サラして筆耕屋を始めたことになります。今思えば、とてもチャレンジ精神旺盛だったのだと思います。
字を書くのが得意だった祖父は、宛名だけでなく、名刺や封筒などの仕事も頼まれるようになり、やがて印刷機を導入し、名古屋市や愛知県の印刷物を受注するようになっていきました。
1980年ごろ、父が松村印刷の社長となり、会社を拡大していきます。母も経理を手伝っていたため、子どものころの私はいわゆる鍵っ子でした。
小学生のころは土曜日も午前中は授業があったので、午後から大須(最寄りは上前津駅)まで地下鉄に乗って、両親の働く会社へ行っていたのをよく覚えています。父の運転する営業車に乗って製本屋へ行き、商品を引き取って納品に同行したこともありました。
ということで、松村印刷所は家族経営の“ザ・街の印刷屋”だったということです。父は昼間は営業、夕方から夜にかけて印刷機を回し、夜遅く帰宅するころには指先が真っ黒でした。
なんとなく、自分もこの印刷会社を継ぐことになるのかなと、子ども心に思っていました。
その後、バブル時代に大津通沿いにあった松村印刷が都市計画により立ち退きを迫られました。家業の印刷屋が抗う術もなく、大須の土地を売却し、天白の植田に3階建てのビルを建てたのが現在の本社工場です。私が高校1年生のとき、1989年のことです。
当時の社員数はおそらく20名ほど、売上は2億円程度の会社でした。
松村印刷所が扱っていたのは、軽オフセットと呼ばれる紙版によるモノクロ印刷です。昔はコストを抑えるため、版を紙で作っていました。「ピンクマスター」と呼ばれるものですが、これを知っている社員は今ではほとんどいません。数年前に、この紙版の技術は完全に姿を消しました。年度末は非常に忙しく、高校3年の春休みに松村印刷所でアルバイトをしました。仕事内容は、ひたすらノンブル貼り。ノンブルとはページ番号のことで、印刷された紙をカッターで切り、糊付けして版下に貼る作業です。
「何それ?」と思った方もいるかもしれませんが、昔はこうした仕事が実際にあったのです。

ページものと言われる印刷物を得意としていました。実際の納品サンプルの写真。
その後も官公庁に特化した印刷会社として経営を続けてきましたが、決して楽な状況ではありませんでした。大学生のころ、なんとなく父の会社はうまくいっていないのではないかと感じていました。
官公庁に出入りする印刷会社は増え、技術力や品質での差別化が難しい中、価格競争が激化していきました。これでは、いくら働いても利益が出ません。そんな苦しい状況が10年ほど続いたのだと思います。
そして私は、一般的な就職活動をしました。1974年生まれの私は団塊ジュニア世代で、この年の出生数は200万人を超えていました。高校受験も大学受験も就職活動も、常に厳しい競争を勝ち抜かなければならず、浪人や就職できない人も珍しくありませんでした。
就職活動では不合格が続きましたが、なんとか2社から内定をいただきました。そのうち1社は現在では上場している有名企業でしたが、自分には合わないと感じ、地元名古屋の中小企業への就職を決めました。
希望していた業界ではありませんでしたが、一緒に働くメンバーに恵まれ、とても充実した社会人生活を送ることができました。仕事が嫌だと思ったことは一度もなく、楽しく働く中で、松村印刷所に入るイメージは持てずにいました。せめて30歳まではその会社で働きたいと思っていた社会人4年目のとき、父から手伝ってほしいと言われたのです。
松村印刷所へ27歳で入社
2002年4月、27歳で前職を辞め、松村印刷所に入社しました。社内は歓迎ムードでしたが、私は何とも言えない違和感を覚えました。
例えば、
・社長(父親)の指示で社員全員が動いている
・定時の17時30分になると全員が帰る
・売上を伸ばそうという雰囲気がない
・仕事は生活のためと割り切っている
・朝礼はあるが会議がない
このような状況を見て、「このままでは松村印刷所は5年も持たないのではないか」と不安を感じました。
2002年8月に株式会社シー・アール・エム(以下:CRM、現BeBlock)を設立し、松村印刷所の後継者と創業者という2つの立場を約2年半同時に経験することになりましたが、CRMの話はここでは割愛します。
そして、2005年、CRMと松村印刷所は合併することになりました。この2年半は非常に激動の日々でした。
中でも大きな決断は、松村印刷所のリアルの印刷機を手放すことでした。2003年ごろから父に相談していましたが、50年以上印刷業を続けてきた中で、息子から印刷機を手放そうと言われれば、反発するのも無理はありません。当初はまったく話を聞いてもらえませんでした。
私がその提案をしたのには理由があります。本社工場は1階が印刷工場、2階が事務所、3階が倉庫でしたが、1階の印刷工場単体で見ると大赤字だったのです。競争激化の中で、印刷はアウトソーシングで対応できると判断し、営業に集中するため工場機能を切り離す方針を考えました。

まさにこんな構図のバトルでした。
父との交渉は難航し、3ヶ月間ほとんど口をきいてもらえませんでした。それでも、デジタル化の流れは明らかで、引き下がるわけにはいきませんでした。
最終的に父は理解を示し、「お前に任せるから好きにしろ」と言ってくれました。こう言わせてしまった以上、これからはすべて自分の責任です。
こうして2005年1月、松村印刷所とCRMは経営統合し、互いのDNAを融合させながら新たなスタートを切りました。そして同時に、「松村印刷所」という社名での後継者としての役割も終わりを迎えました。
栄生工場で使っている作業台は、松村印刷時代のもので、作業台にはインクが飛んだ痕跡があります。この作業台を見ると松村印刷のことを思い出します。
以上が、BeBlockのルーツである松村印刷所の紹介でした。