“イデア”ってなんなのか
哲学者プラトンがいつの時代に、、、とかいう話はしません。そんなものは調べればわかることですから。“イデア”の話をはじめます。私の言葉で説明するよりも、イデアについてわかりやすく解説してくれている「哲学チャンネル」さんの言葉を引用して説明します。
イデア論とは、私たちが普段目にする現実の世界は不完全な「劣化コピー」であり、その背後には永遠で不変な「本当の理想郷(イデア界)」が存在するという考え方です。
(引用元:https://www.youtube.com/channel/UCAmfstWXkAnAVBdfAci4bzA)
この説明だけでは漠然としていて理解がしにくいと思います。
端的にいうならば「世界の物事には大小を問わずオリジナルが存在している」ということです。例えば「これはなんですか?」と赤いリンゴの写真を見せられた時、見たことがある知識として知っているからこそ「リンゴです」と答えます。
しかしながら、仮にそのリンゴの色がとても考えられない色をしていたり、大きさが両手に抱えるほどのサイズだったとします。
それでも私達は「色のおかしなリンゴ」「デカすぎるリンゴ」とリンゴであることを認識します。見たことはないんです、そんな色や大きさのもの。でもリンゴとして認識できる基準がそこには明確に存在しているんです。
BeBlockは愛知県に本社を構えていますので、愛知県民が分かりやすい例を出します。
「B紙」という愛知県特有の紙を指す表現があります。
画用紙のことを指しますが、明確に大きさが規定されているわけではなくみんなの中に「B紙は”黒板に貼ったりするでかい紙”」というイメージがあるんです。
これもイデアの例えに向いています。明確なサイズを教えられて知識として持っているわけではないんです。でもB紙を見た時にそれがB紙であると判断できる基準がみんなの中に存在している。
これがイデアです。なんとなく伝わってきましたかね?
(A3より大きい紙をなんとなくみんなB紙と認識しているようです)
物だけではありません。明け方ってどんな明るさの空か、美味しそうな見た目って何か、美人ってどんな人か、騒音と感じる音の大きさ。
ズレはあっても根源的に共通する属性を知っている。それがイデアです。
“善のイデア”をどう捉えるか
“善のイデア”とはイデアの中でも最高位に位置づけられるイデアです。
この存在は全てのイデアの背景にあるとされ、宗教的な言い方をすれば神に位置します。
神が全てを創造したとされるのと近しく、その他のイデアは善のイデアを前提として存在していると考えてください。
そしてこの”善のイデア”が本質と存在をその他全てのイデアに与えています。そのため、善のイデアを認識/追求することが人としての在り方や実存に対して明るくなるための方法です。
ただし、“善のイデア”自体に個別具体的な説明はありません。
ソクラテスとの対話の中でプラトンが表現した内容やアリストテレスの提唱した最高善の内容(イデア論を肯定するものではない)がありますが、結局は全てが比喩で言語化された本質ではないのです。
なんだよ説明はないのかよ、と大ドーパミン時代を生きる現代人にとっては落胆かもしれませんが、私個人としてはその方が好ましいです。与えられる答えが全てではないのが哲学ですし、それについて自分自身が考えるということが既に”善のイデア”への追求にほかならないからです。
“イデア”という概念と「洞窟の比喩」
イデア界とのつながりは魂とのつながりです。かつてイデア界で魂がそれぞれのオリジナルを知っており、そのオリジナルを知っているのです。
洞窟の比喩という例えを交えながら説明します。
- 私たちが普段目にする現実の世界:洞窟の壁に映る影
- 各種様々なイデア:影のオリジナル
- 永遠で不変な「本当の理想郷(イデア界)」:外の世界

私たちは基本的には影を見ています。物事の捉え方が異なるのはこの影を見た時の主観に依存するため、人それぞれの考え方・見え方というものがあります。影に立体感はありませんし、色もありません。そのため本当の意味でその影が何なのかを私たちは普通に生きていたら認識することができません。
しかし、リンゴの例えでも伝えたようにそこには言語化されていない本質的なイデアが存在しています。それが何なのかを認識しようとすることはできます。いじめなどの社会課題はわかりやすいかもしれません。
イデアを認識するためには、洞窟の人は壁ではなく、オリジナルを見るために洞窟から外に出る必要があります。この外に出るということをしていくことが、イデアに近づくための行動「想起」です。魂は知っているということです。それを肉体を通して「思い出す」ということが「想起」です。
実存に問いかける
人としての具体的な在り方についてです。
いじめの問題について例を出しましたが、この問題に対して自分はどう捉えるか。あなた自身はどうすべきだと考えたのか。この答えの追求の先にはイデアの本質(”善”のイデア)があります。
少し裾野を広げるのであれば、仕事において自分は何を大切にするのか、人との繋がりの中で自分は何を大切にするのか、生きていく上で自分は何を大切にするのか。大きな命題ですがイデアについて知ることは根源的に自分の在り方を定義する行為であると言えます。
「君はどう生きるか」という著書が昔、書店のセンタースペースにたくさん並んでいた時期を思い出します。はっきり言ってこの書を私は読んでいないので掘り下げないのですが、どう生きるか・なぜ生きるかはとても大きな命題ですがこの命題に向き合うという考え方はプラトンの時代から同じくしてあったということです。
2000年以上の時が経っても正解はコレというものが見つかっていないのは正解がないのではなく、その本質が私たちの認識できる形をしていない、または本質自体には触れることはできないが近づくことはでき、確かにそこにあるということの証明なのかなと私は考えます。
BeBlock的な言葉で考えてみる
BeBlockの経営理念に「Think as a person(「人として」を考える」)」という内容があります。

位置付けは経営理念のVALUEに当たりますが、今の自分が「人として」どうなのかを考えることは前段にてあげた「想起」に該当すると考えます。
いい人であるといっても何を持って「いい人」とするのかは正直人それぞれあります。関わる人全てに対して優しくするのがいい人である、みんなの要望を叶えるスーパーマンがいい人である、オフィスの空気をあっためてくれるムードメーカーがいい人である。これらはきっとどれも一つの正解です。
その奥に「いい人」のイデアが存在しています。どんな答えを導き出すのも、それは個人の自由です。しかし、「いい人」とはなんなのかを自分なりに考える。そして自分の見つけた答えに近づくために自分の考え方や行動を変えていき、仕事と向き合う。社会と向き合う。一人一人がこの「いい人」のイデアについて考えることが、人が、組織が、社会が少しでもいい方向に向かっていくためには必要だと感じます。
BeBlockではこれを「VALUE:価値基準」として設定し、常に向き合うことを掲げています。イデアの話をしていると、この価値基準の根っこの部分にはプラトンの考え方の基礎を感じる瞬間がありました。どこまでこの理念に従って社員一人一人が思考・行動できているかは数的算出ができるものではありませんが、定義・実践を謳い続けることで組織全体がその方向を向いていくということが「いい組織」になっていくために必要なんだと私は思います。
まとめ
BeBlock自体に強引に絡めてなんとか成立させたようなコラム記事になってしまいました。
とはいえ、書きたいものを書くということに私は意味を見出していますので今後も自分が書きたいものについて書いていきます。
どちらかというと自分の好きな哲学だけを考えていたいので、哲学に関する紹介記事はこの一本だけになると思います。次回以降はまた切り口を変えて自分の考え方やBeBlockでの働き方について発信していこうと思います。
